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『ゴジラ』について考えてた事を書き留める

 以下の文章は一昨年僕がレポートの課題で提出したものに加筆した物です。

 自分が怪獣映画に対してどういう考えをもっていたか確認したくなったので見直した次第です。

 

 

 

 

 『ゴジラ』という映画に、派手なヒーローやスピード感溢れるアクションは存在しない。唐突にして現れた巨大な怪獣が、暗い音楽と共に東京の建物群を破壊しながら歩き回り、海に帰っていくというのがこの作品の山場である。だがこの映画は長くにして語られ、ついには米国の映画会社レジェンダリー・ピクチャーズ*1より、ストーリーこそ違えども初代のスピリットを受け継いだ形でのリメイク作品が公開された。何故一つの映画作品がここまでの人気を呼び2004年までに20作品以上にものぼる続編作品の制作を可能とさせ、そして何故今にしてこの映画は再び作られたのか。その理由の一つとして、言うまでも無くゴジラという存在が当時の空気とに恐るべき反応を示していた、という事が挙げられる。映画は元々「世相」を映し、時代の尺度となる面があるだろう。「世相」というものについては、時代の雰囲気といった曖昧な物から、その問題そのものをトレースしたような物までと幅広い。『ゴジラ』の場合は後者で、さらに公開された時期は特別注目されるべき時期であった。

水爆実験で覚醒した太古の巨獣ゴジラが東京を襲撃して都心を火の海に化すという……(略) (2)

即ち、ビキニ岩礁第五福竜丸。広島と長崎、原爆。東京を同じように襲った大空襲。これらは戦争経験という一つの名の元に束ねられる。日本の中でそれは限定的な地区で行われた物ではない、日本全体を痛ましさに満たした時であった。『ゴジラ』という作品はこの問題と向き合った。「ゴジラ」という怪獣はこの問題を背負う宿命を与えられた。重すぎるほどのこのテーマを背負った怪獣はしかし、スクリーンの向こうの私達に対しては何かを語り掛けるという事をしないで、黙していた。無論動物は語る事をしない。否、動物は人間と意思疎通を取る事があっても、「通過するだけの災害」が人間に言葉で語り掛ける事などしない。だが、ゴジラは確実に、言葉では無い何かを残してはいった。それはスクリーンの内においても外においても同じ事であった。言葉で何かを残す事とは明らかに異なっている部分がある。それは、一人一人が受け取るメッセージは同じ物では無い、という事だ。「反核の象徴」という意見が確かに多くはあったが、客観的に見れば一つの自然災害であり、それでもある人はそれをまだ愛嬌の残留する破壊動物と見た事だろう。後の映画にて語られる散り散りばらばらの「ゴジラ像」からも、それは見受けられる事だ。例えば2001年に作られた『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃』では、

金子(この作品の監督)はゴジラを戦争の亡霊と解釈した。(3)

 

 

 ゴジラという存在に様々な意味があったからこそ、この作品は語り継がれた物であると言わねばなるまい。多くの意見が交わされ、確かな答えは絶対に提示されていなくとも、それを作った人の心の中には何か答えに似た物が存在していて、少なくともそれは何も考えずにつくられた意見では無い。一人の人間に生まれる答えが一つとも限らず、もしかしたら今その人間がはらんでいる問題全てを、その作品は包み込んでしまうやもしれない。そうした多義性を含んだ映像が後の世代にまで答えも出ないのに議論され続けているというパターンは多い。それは、間接的な言葉で語られる様な作品においてもそうだ。『ゴジラ』については、「黙せども語っていた」。それは鮮烈なグラフィティによる訴えである。巨大な怪物が我らの知る風景を破壊していく――それだけでも十分鮮烈なはずであるのに、その怪物にはキャラクター性を感じさせる存在感があった。それは、着ぐるみを通してゴジラを演じる役者の存在があったからである。見えている物は一つの怪獣スーツでしかない。だが、その中から動きを通して人格にも等しい生物感が伝わってくるのだ。その訴えにはとてつもない力が備わっている。授業においても「絵」の持つ情報の優位性は非常に高く、私達の生活の上でもイメージは溢れているという話題は出た。例えば、一つの小説を読む時に、私達は文章で見たそのままで意味を受け取ろうとするだろうか。確かにそうであるという人もいるだろうが、その文面から感じ取ったイメージをあたかも映画の様に脳内再生する、という人も多くいるだろう。小説からグラフィティに変換するという事はあれど、映像から文章に脳内変換する事など、作家志望でも無い限りあまりしないはずだ。イメージが持つ力は強大である。2014年のゴジラでも視覚的に語る場面は多く、監督であるギャレン・エドワースも、そのために目だけで感情表現が出来る俳優を主人公に抜擢したと語っている。(4)

 

 1954年の『ゴジラ』は現実を留保させるような娯楽作品では無かった。極めて社会と結びつき、人々の心と共鳴した作品であった。ところで映画とは芸術作品であるが、社会と結びついた芸術作品と言えば興味深い物がある。「社会や誠意運動にアート的方法や表現を積極的に活用した活動一般、過激な制作表現とも言えるそれ」をある人は「アーティヴィズム」と呼ぶ。情報の波に飲み込まれそうになるような混沌で、本当の事を知りたいとは誰もが思う事だ。しかし、世界のカタチは「隠蔽」「監視」様々な形で塗り潰され書き加えられ、参考文献の言葉を借りれば『善も悪も似たような面構えで目の前に現れる』。(5)つまり、人そのものの感性を頼りにして生きなければならないのだ。鋭敏な感性を持った存在は、社会の中の本質を取り出す事が叶うかも知れない。だが、それ以外の人間は、何を感じれば良いのか。鋭敏な感性を持った人間が本質を伝達する、という方法が一つあるだろう。言葉でそれを試みる人は多くいる。だがそれは危険な面もある。強大な力を持った人間がそれをやれば抑圧を招く恐れもあるし、言葉の連なりだけでそれを受け取ってしまう人も多いだろう。だから、ある程度からは個々の感性に委ねる必要がある。人々にその状況を気付かせた上で、それをどのように受け取るのか見届ける……つまり、伝わるように、ミニチュアのように俯瞰でそれを観察する事ができるように加工されたような、現実の鏡の如き存在が必要なのである。前述したグラフィティの鮮烈さは、それを実現するのに十分ではないだろうか。例えば、『Ztohben』という事件。

2007年、6人組のアーティストがチェコの公共放送の番組中、田園風景で核爆発が起こる合成映像を流したという事件である。これも一つのアーティヴィズムであるが、「テレビが伝えれば真実なのかという懐疑の提議と、メディアへの侵入は可能だという実践」が意図されたという。リアルタイムでこの様な物を見せられた人々は、もう一時でも何かを感じ、また考えずにはいられないだろう。

 

 『ゴジラ』もリアルタイムを映した作品であった。だから後世に渡って受け継がれるゴジラも、時代の問題から目を背ける事無く映す作品が多くあった。戦後の歴史についてさほど詳しく無い私が、「こんな事がこれくらいの時期に問題化されていたのだな」と知るきっかけになったのは、ゴジラシリーズであった。「ゴジラ」というキャラクターが社会の問題を、また前述した様な存在の多義を包み込み得た理由とは何か。幾ら鮮烈なグラフィティがそこにあったとしても、人々が過去と同じ解釈でそれを見るとは思えない。例えば「ゴジラ」の場合その鮮烈さは薄れていき、CGによる映像が普及した今では着ぐるみが滑稽にすら感じられる。ゴジラという存在が未だ持つ価値とは何か。それを知るためにはリアルタイムでは無い、ずっと過去を意識せねばなるまい。即ち、神話などが息づいていた過去の話である。事実1954年の「ゴジラ」も、初めてその姿を現したのは神話の息づく島で、その島の伝説の神になぞらえて「ゴジラ」という名前が付けられたのだ。単なる生物では無く、この世ならざる物という解釈。全てを包み込む様な巨大さは、目に見えるそのままというわけでもない。日本人は台風、地震を真に受ける度に「自然には勝てない」という事を思い知らされた事だろう。だから日本人はある時自然を神と見立てたりする事を覚えた。その様な感覚は日本人にしか存在しないと思われるかも知れないが米国の方が名付けたゴジラの英語表記は、「GOJIRA」では無く、「``GOD``ZILLA」である。この世の問題全てを諌めるような神の力、日本人の、あるいはヒトと名の付く物全ての感覚そのものに訴えかける様な存在感はいつまで経っても変わる事無く、ゴジラにはあるのだ。

 

 社会の本質を映した鏡、映画もやはり同じ様な物である。戦争体験の失せた今でも、3.14、津波原発――向き合わねばならない要素は山の様にある。中でも「原発」の問題は、ゴジラが再び立ち上がるには十分過ぎる問題だ。2014年のゴジラもその問題とは逃げずに向き合っていた。それに、長年プロデューサーとしてゴジラシリーズに携わってきた富山省吾プロデューサーはこう語っている。

原発の問題はまさにいまですが、ゴジラで伝えられることは常にあります。人類への警鐘だったり、時代が抱える漠然とした不安の象徴だったり。……(6)

 全てを包み込む事が出来る存在。意外と自分の内部にその答えと行かずとも手がかりがあったりするかも知れない。問題を起こすそのものの人間に内部があり、その内部がまだ吐き出していない物、大切な物は守られろうとするものだから、その中に真理があったりするかも分からない。「リアルタイム」と過去からある感覚、人間の根底にある感性に訴えかける様な要素を足す事で、起こりうる化学反応。少し利用してやるだけで「美徳の学校」足りうる作品を生み、語り継がれる作品を生み、多くの人の心の共感を呼び起こす作品を生むだろう。これは映画というジャンルのみの話では無いように思えるのだ。精神の「本性」、それだけではなく外界のもの全て、外的な自然、それだけではなく内的な自然。2つの物と向き合う事で私達は、感性の世界で社会に働きかける事すら叶うのではないだろうか。

 

参考資料:

映画『GODZILLA』パンフレット

(注2):『ゴジラ映画の歴史』の項の初代ゴジラ説明文より抜粋

(注3):『ゴジラ映画の歴史』の項の同名映画説明文より抜粋

(注4):監督の発言より抜粋

(注5)美術手帖 2012年 3月号特集『REAL TIMES』、美術出版社、p10-11,p40,p80

美術手帖 2012年 03月号 [雑誌]

美術手帖 2012年 03月号 [雑誌]

 

 

(注6)Pen 2014年7/15号特集 『ゴジラ完全復活!』、阪急コミュニケーションズ、p22-p23,p30-31(注釈箇所は雑誌Pen No.363より抜粋)

Pen (ペン) 2014年 7/15号 [ゴジラ、完全復活!]

Pen (ペン) 2014年 7/15号 [ゴジラ、完全復活!]

 

 

ゴジラ』1954年

 

 

 

『GODZIILA』2014年

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組
 

 

 

↓同じ時期に耳コピしたやつ

*1:2005年に制作された映画会社。主な作品は

スーパーマン リターンズ(2006)

ダークナイト(2008)

インセプション(2010)

マン・オブ・スティール(2013)

パシフィック・リム(2013)

GODZILLA(2014)

など